じぶんが考えるに,それは常にアップデートが必要な,とらえどころのない概念だ。
時,人,場所場合によっても変わるんではないか。
この辺り,上手に気を利かす人は珍しい気もするが,よくよく考えてみると,皆それぞれに気を利かせている。
つまり,そのような姿勢を常に保つことが常識の正体なのじゃないかなと思うのだが,まぁ面倒くさい場合もまた多いので常識が無いふりをするのも手だ。
中でも面倒くさい代表とは,遥か昔から変わることなく固定されたものの見方や考え・礼儀作法があり(なかなかそんなものはないと思うが),それが当然おれにはあって,残念ながらおまえにはない,これぞ「常識」なんだと威勢よく言う人である。
更新が少ないこのブログではあるが,清掃をしながら何を書こうか考えていることが多い。
今回は,地動説が300年も宗教上の理由から表にでず,その間いわゆる「常識」は天動説になっていたのだということを考えていたら,このような内容になってしまった。
結論として,地動説を発見した人物は「常識」が無かったといえるのではないか。
ちょっと本を読んでみると,なにかの間違いで人々の「常識」を変えるような発見をした場合に,それを公言してはばからなければ,宗教上やその他各種諸々の都合によりやられるというのが大昔からの常識なのだった。
真実を知った場合,とりあえず黙っていることだ,それが「常識」なんである。
おしまい。